ロマンを求めいて庄屋金子 |
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庄屋金子と言い伝えの墓碑 |
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熊本県天草市倉岳町宮田西ノ原、通称樋の口に金子の大先祖と言い伝えのお墓、左記写真がある。聞くところによると庄屋伊兵衛とも言われている。 石碑の制作年代・建立者は不明であが、形式からみて江戸時代のもと考えられる。石碑には二人の戒名・没年月日も刻まれているが永い年月で風化しているが僅に幸末の字が見えるが読み取れない部分もある。 (元禄5年申3月16日・・西暦1692年) |
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倶會一処(くえいっしょ)
ともに一つの場所で出会うということ、阿弥陀経は極楽浄土へ生れる願いを起すことをすすめ、それは浄土の仏・菩薩たちと倶(とも)に一つの処で出会うことが出来るからである、と説いている。 一つの処とは浄土のことである。真宗では、念仏の信仰に生きる人は、この世の命が終わるとただちに浄土に生れるとし、そこで墓碑に「倶會一処」と刻むことがある。(岩波仏教辞典より) |
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百姓騒動 |
百姓騒動の始まりは徳川幕府が百姓に稲や麦や大麦の耕作に課せられた普通の税に加えて、重税を課した。・・これを支払い出来ない百姓は、ひどい虐殺を受け、百姓に五人組を決めておき、何事によらず五人組の内で、御法度を犯す者はいうまでもなく、悪事をいたす者あれば、その組からすみやかに申し上げること。 もし隠していて、五人組以外から訴え出るものがあれば、その者には内容の軽重に応じてほうび取らし、五人組の者には、庄屋ともども処分をいたすのでその事を覚悟せよ。(徳川禁令考より) 百姓騒動で庄屋伊兵衛が闕所(改易)されたのは元禄4年1月であることから騒動の連帯責任をとり妻をつれたち自刃し、自ら命を絶つことで騒動の鎮まるのを願ったのだろう。 |
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庄屋伊兵衛 |
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1・闕所されたのは1691年、江戸時代の刑罰で追放刑以上の付加刑で領地、財産などを没収された。
2・二人の没年月日が同じであること「元禄5年申3月16日」「倶会一処」倶(とも)につれだつ。
3・当時は石材でお墓を建立するのは一般庶民とつては出来なく、せいぜい川原の小石で積み上げていた程度だった。
4・石材でお墓を建立する家は武士や裕福な町人・庄屋(名主)など旧家だった。
5・戒名「光誉曾秀」四文字に「曾」の文字が組み入れられてありおそらく長曾我部氏の家名、呼び名。「秀」の一文字は当時村落で知名度が高く秀才なる人物は庄屋さんや組頭だった事からしてその家名、呼び名の一文字を尊称したと考えられる。
6・碑ノ口に祀られておられる仏様に二人の兄弟がおられ弟の新左衛門は下浦村に移転され1710年に亡くなられている。年代からして符合する。
7・庄屋伊兵衛が闕所(改易)の後、幕末まで宮田村の庄屋は中村家が世襲する。
8・西ノ原の金子一族は親から子へと、幾代にも受け継がれて、お花見を兼ねて先祖の命日に供養祭を営まれている。 |
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先祖から頂いた金子姓 |
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庄屋伊兵衛の屋敷や現世の子孫は不明だか、伊兵衛の先祖は天正13年7月に金子城と高尾城が落城し金子一族は滅びるが落城と共に土佐や西海(九州)に落ち延びた将兵たちがいた。金子平太夫・金子介右衛門・金子介左衛門・金子神兵衛・金子久兵衛・金子次郎左衛門・金子周防守等の名前が見られる。 金子神兵衛・金子久兵衛は金子城の守将兵として金子と土佐の連合軍、両軍火花を散らして前面の敵中へ斬り込み激しく交戦した将兵であった。 その将兵の方々が庄屋伊兵衛の先祖、そして我々の先祖であるならば素晴しいロマンあふれるルーツとドラマかも知れません。聞くところによると金子一族でお墓を掘り起こし調査したが亀壷が出土しただけで遺留品は何も出土しなかつたと聞き及んでいる。 我が金子姓はこのお墓に眠られておられる庄屋伊兵衛の後裔か子孫、どんな人物かはさだかではないが「金子」と言い伝えられている先祖から明治3年苗字許可命により金子姓を頂いたことは間違いないだろう。 |
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天正ノ陣 |
動画はPCやアップルのスマホで再生出来ます。 |
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金子先祖供養祭 |
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平成12年4月22日先祖の308年供養祭 |
平成13年4月22日先祖の309年供養祭 |
平成12年4月22日に倉岳町宮田西ノ原で金子先祖の308年供養祭が一族が集って行なわれた。金子先祖は宮田西ノ原「樋の口」に元禄5年申3月16日(1692)没の庄屋金子と言い伝えのお墓があり、毎年子孫の方々が旧暦に当たる命日にお花見を兼ねて先祖を偲ばれておられる。 |
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庄屋新左衛門の子孫9代目の金子氏天草市の自宅にて |
庄屋新左衛門・・愛馬の鐙(あぶみ) |
伊兵衛の末弟、新左衛門は下浦村に移られ1710年に亡くなっている。婿養子で二代目襲名した新左衛門は下浦村庄屋を世襲した。子孫で9代目の金子氏(天草市下浦町)のお話しによると初代新左衛門は四国からの落人だったそうです。 |
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金子大先祖のお墓移設 |
西ノ原の金子一族は親から子へと、幾代にも受け継がれて、お花見を兼ねて庄屋金子の命日に供養祭を営まれている。 庄屋金子のお墓は急坂道の丘「樋の口」に建立されている。少子高齢化が進むなか、このままでは将来、大先祖のお墓参りも困難が予想され、金子一統が集まり大先祖のお墓の移設が話し合われた。何時でも誰でも気楽に参拝が出来る一族が住む集落近に移設が決まった。 元禄5年申3月16日(西暦1692年)没、316年供養祭を機に移転する事となり4年越しの念願となった。 平成20年3月31日、遣迎寺住職、山崎龍道和尚による仏様の魂抜き仏事が執り行われた。同4月12日には入魂の儀式、お経と煙香が流れるなか先祖の供養と子孫の繁栄を願い慰霊を弔なった。紅白の餅投げも行われ、大勢の方々が先祖の供養に訪れました。
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平成20年3月31日魂抜き儀式 |
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平成18年3月20日発行の「倉岳町誌」に宮田村庄屋金子P165に紹介されている。 |
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