ロマンを求めいて野々市原の決戦

天正之陣野々市原の決戦
荒川法勝 PHP文庫出版長宗我部元親をご紹介する  戸次川の花よりP-286
敵の毛利方は3万余騎の大軍である。沖に軍船を碇泊させ、上陸の動きを見せて、土佐方を疲れさせた。そして、7月2日から5日にかけて、新間をはじめ、東伊予の海岸から続々と上陸をした。東部の毛利軍は、岡崎城を占領し、西進して高木から松本に到着した。小早川・吉川軍は、海岸を東進し、磯浦に達し、名古城、御代島を陥落させた。そして西進した毛利軍と合体して、金子城の攻撃を開始したのである。
金子城は金子山の頂上に築かれた堅固な城である。西に谷が入り込み、北に沼沢があり、自然の要害でもある。金子元宅は、弟元春と共に、いよいよ毛利の大軍との決戦が近づいてきたことを感じた。元宅はたつた今、丸山城が敵の手に落ちたことを知った。「兄者人。黒川広隆は、城を敵に渡し、人質を出し、降伏したとの由でございます」弟の元春の顔に、無念の思いが浮かんだ。
「いずれ、広隆は、敵の先導どなり、この城を攻めて来るであろう。昨日の味方は、今日の敵とは、これ戦国の習いだ。強きになびくも世の常だ。だが、義を貫くは武士の道といわれる。わしわ、そのことのため生きるぞ」「もとより、兄者人。元春も、その覚悟でございます」「よくも申した。されば元春。各勢の部将を二ノ丸の広間に集めてくれ」
金子城は本丸を中心に、南に二ノ丸、東に中央出丸を擁していた。続々と広間に集まった諸将の顔は、さすが緊張に満ちていた。金子元宅は、おもむろにいった。秀吉が、諸国に下命し、今、毛利の大軍を受けて苦戦している。われらは、僅か二千余の勢いに過ぎない。おそらく、この合戦、千万に一つの勝ち目ないであろう。
なれど、元親どのとの誓約を破り、いまここで、敵に降伏いたすは武士の義にもとる。されば、元宅、義のために、天下の軍勢を引き受けても戦う覚悟である。
もし、元宅、討ち死にをいたしも、その武勇は、祖の霊の喜びところだ。節義のためならば、死をも清められるであろう。元宅は、ここで言葉を切り、一呼吸おき、
「なれど、諸士 の中には、妻子を捨て難く思う者あるはずだ。これ人の情けである。されば、その者は城を出もかまわぬぞ、元宅、いささかも恨みに思わぬ。そのほうたちの思いのままにいたすがよい」と非壮な覚悟を示したのである。すると、元宅の言葉に、家老の三島源蔵は、色をなして進み出た。
「何という情けないことを申されますか。殿が臣下を抱え、温を厚くされ、われわれに情けをかけられるとは、皆、領国を保ち、民を守り、乱れ鎮めるためと存じます。また、年来、禄を給わりながら、この危急のとき、心変わりいたした殿を見捨てるならば人といえましようか。たとえ、敵が何百騎あろうとも、勝敗は時の運、命の限り戦うよりほかに取るべき満ちはございませぬ。「おのおの方、どう思われるか」
源蔵の弁舌に、黒川左門をはじめ、諸将も、「われわれの志、三島殿の申されるとおりでございます。われら義より命を重んじ、恥を求めと名を失う者はございませぬ」と口々に決死の覚悟を述べたのである。もとより元宅は、人格、識見ともにすぐれ、政治にも心を配り、家臣のみでなく、領民からも慕われていたというから、主従の気持ちが一致したのであろう。なお、領内の百姓たちは、ゲリラ戦を展開し、毛利軍を悩ませたと伝えられている。金子城内で主従が心を合わせて敵を迎え撃とうと決議していたとき、元親の下命を受けた先発の土佐勢、約200余騎が、場内へ援兵として駆けつけて来たのでる。元宅は大いに喜び、城兵の土気も盛り上がつた。このあと、元宅は金子城の守備を弟の元春に托し、自分は高尾城へと入った。こうして土佐方の金子兄弟は、両城の守りを固め、寄せて来る敵の中国勢を、いまや遅と待ち構えたのである。
花房新兵衛・片岡光綱公供養塔    天正13年7月17日(1585年)没 享年36歳 法名 慈眼寺殿威峯宗雄大居士
(二話)
金子元春が望見すると、吉川、小早川の中国勢は、二重、三重に囲んでいる。やがて、軍勢が左右に移動している。戦闘に先立って法螺貝、陣太鼓が響き渡った。間を置かず、中国勢が前後からいっせいに、押し寄せて来た。まず、鉄砲のつるべ撃ち、続いて弓矢が数百、数千も空に飛び放された。続々と槍、太刀をかざして、騎馬、徒歩の兵が突進して来る。
城中からは、負けんじと、鉄砲を撃ち返す。もとより、打ち死を覚悟の城兵である。城中から討って出て一歩も退かない。 彼我いり乱れて修羅場となった。多勢に無勢、大半は討ち死にした。なかでも、元親の命を浮けた花房新兵衛は、本丸南方の山間部にある馬淵口、そして、片岡光綱は、北川口を守り、死闘を続けたが、ついに、優勢な敵に押され、花と散ったのである。城将元春は、兄の娘、一族郎党を逃がすため、立ちどまって追っ手を討ち殺した。だが乱戦の中で、深手を負い、戦死したのである。 
ときに7月14日のことであった。こうして金子城は、凄まし戦いの後、ついに落城した。一方、高尾城に籠った金子元宅は、新居・宇摩二郡から集結してきた諸将は指揮し、兵を三手に分け、本陣を城内に配置し、一手を敵の正面、一手を城外の山腹に伏兵として待機させた。
金子城を落とした中国勢は、余勢を駆って、どっとばかりに、高尾城に押し寄せて来た。敵は鉄砲を撃ちかけ、前哨を破り突入して来た。城方は、じっと静かに待っている。頃を見はかっていた元宅は「撃て」と命じた。凄まし味方の鉄砲の集中射撃、敵の先陣の騎馬の将が、胸を射抜かれ、宙に飛び上がり、倒れるのが見えた。
山中に潜んでいた味方は松本勢が吉川軍の横腹を突いた。伏兵に驚き、右往左往する敵兵。この混乱に乗じ、城方から真鍋勢が、木戸からどっと突入したて行く。こうして、彼我入り乱れての凄絶を激闘は17日の早朝から続いていた。だが、総大将の金子備後守元宅も、身体に27ケ所の傷負い遂に或る荒寺に入り自害をする。側近の家来は、首を持ち帰り現在の慈眼寺の裏山に葬った。

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