ふるさと倉岳弁
平成4年7月「浦を語る」 くらたけ広報7月号P8・I.Wさん記事より抜粋 
あんころは大変じゃった
わしゃだいたい18のころ、そんころ蚕のはやつとったで、蚕の技手になろうて思うて、ほしてからいたっじやっかなん。そして修業にいって6年おって、六年目にゃ技手の免許ばとってきたでて、修業先の人のゆっくっだいたっじょん。
ほしてわがえ来た時にゃ、そがんとばすれば百姓のつまらんごつなるておやじかゆうえっかり、おじたちが木出しばしいよっでわりもせろてゆうて、ほしてあがんとばさせらいたっじゃかなん。
ほしてかり、技手もやめてかりやりやしたっでした。牛ばこうてかり上揚にやどばかって、何年も木出しのしいごつばしたっじゃっかなん。
あんころにゃ、子どんが弟どんが学校に行きよったで、そがんしてひゆばとらんば、百姓じゃあってんしかたなかもんやっでなん、弟は熊校にやっとるし、どがんもでけんじゃつた。
ほしてかり、そがんしいよって学校はどろころやったじゃっかなん。太か木ばかりやったでかなん、大変やった。
平成4年9月「宮田を語る」 くらたけ広報9月号P8・M.Yさん記事より抜粋 
木でん出すも人力ばかりやった
わしがこん家ば建ててかり、ちょっと30年になりますもんな。お金てゆうたっちゃ、そぎゃんぜいたくな暮らしはしとらんやったもんな。
わしが杉山ば持っとって、50年内外の木ば使うてこん家ん柱にしやした。そん山ば見らした棚底の大工さんが「売ってくれんかなん」て相談にからしたばってんか、そんかろん家が明治9年に出来た家やっで、修繕したっちゃなごは住まれんでか、なんもかんもやりかえてしまおうて思うて、わしがひとって設計ばしやした。
そんころは木でん出すも人力ばかりやったでか、そうにゃ苦労ばした。
ばってんそん時思いきって家ば建ててよかったて思う。
平成3年7月「おばあちゃんのむかしは」 くらたけ広報7月号P7・Y.Nさん記事より抜粋 
いっちょんなかった
「今は電気炊飯器あるばってん、むかしははがまで炊きよった。水加減は平手ばつけてかり、くるぶしの上までくるごつ、水ば入れよった。ほして、はがまかり吹き出してかり、薪(たきぎ)ば引きよった。
ばってんが米はすくのして、三升だきんはがまに、米はちっとで、ほときさまに米んめしば上げて、べんとうのごたっとは、麦ばかりやった。
べんとうのしやあ(おかず)は梅干しとなつけの根ば入れてやりよった。まこて、なんぎばしよった。なんさま子供が10人やったでか、こびり(おやつ)は、からいもば炊いておいとった。おっとんがしごつかり、あがってきたとにゃ、子供が食ってしもてかり、いっちょんなかった。」
平成3年9月「おばあちゃんのむかしは」 くらたけ広報9月号P9・S.Tさん記事より抜粋
きばるばかりきばって
わたしゃ18哉で結婚してきたばってんが、33哉で一人になったでか、家ん人がえらいかわいがってくっだいた。よめごになってかりは、ごっとりごんべ60年ぐらい、百姓ばっかりしとった。
百姓ん道具は釜と、ナタと、クワば、つかいよった。麦ば作った時にゃ、牛に引かせてすいたあと、くれしゃぎでしゃいどった。肥は、うえ棒でかついでいきよった。今ん時代とすればちごた。
めしは、からいもばかりやった。今は、もったいなかごたる、ごつっば食うて、むかしんしはかわいそうかった。きばるばかりきばって。
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